2014-07-24

2014年7月24日


演奏の準備というのは、遠足の持ち物の準備とは違い、目に見えない部分に頼らざるを得ません。
特に邦楽では、楽譜を用いないことが多く、頭の中に入っているものを引き出していくことになります。それは出たとこ勝負的なところもあります。自分のことでも、どうなるかわかりません。
こういう不安定なものを頼りにしていると、記憶ということについて考える機会が多くなります。

私は一歳くらいから記憶があるのですが、その頃の記憶には決まって不安や恐怖が伴います。

高い高いをされて、天井が迫ってくる恐怖。
こちょこちょをされた時の、あの痒みとも痛みともつかない気持ち悪さと、迫ってくる大人の顔の不快さ。
遠くからサイレンの音が聞こえてきた時の、身体の奥底から湧き上がる不安。
犬に追いかけられて泣き叫んでいるのに、大人に全く相手にしてもらえない虚しさ。

もっと大きくなってからは嬉しい記憶も付け加えられていきます。
雲が流れていくのが美しかったこと、ススキの穂が夕陽を受けて眩しいほどであったこと、焚き火の輪郭の後ろの景色が揺らめいていたこと…

とにかく心が大きく動くということが記憶と大いに関係するような気がします。
そして、何を記憶しているかということから、実は当時自分が何に心を動かされていたかが分かり、面白いところでもあります。

よく、年を取ってきて記憶力が落ちるといいますが、脳の機能が落ちるからだけではなく、むしろそれ以上に、この心の動きの振幅も減ってくるからかな、なんて想像しています。

心を大きく動かして生きていくこと。それが記憶への道でもあるし、生きている実感を手にすることにも繋がっていくのでしょうね。

それにしても、幼児の頃の記憶に縛られて、いまだに赤ちゃんを高い高いすることも、こちょこちょすることも出来ません。
記憶に縛られ過ぎると自由ではいられなくなるのかなと最近うっすら感じています。
高い高いとこちょこちょが好きな赤ちゃんも沢山いるはずなんですよね。

良きにつけ悪しきにつけ、記憶によって作られていく人生。
何が出てくるか分かりませんが、出たとこ勝負で楽しまなくちゃ。