2016-05-08

2016年5月8日

昨日、「伊福部昭百年紀 4〜十年祭に寄せて」コンサートでの奉納演奏を無事に終え、全身筋肉痛の真っ只中にいます。

実は、オーケストラ、声楽の方々の重厚感ある演奏の前に、箏という楽器を1人で演奏させて頂くということで、かなり緊張感ある日々を過ごしていました。

テクニカルな点でコンプレックスがある私は、自分の奏でる箏の演奏を、西洋のクラシックの世界の方々に「音楽」として扱ってもらえないような気がして、ある種の劣等感を抱いてしまっていたようです。

自分の血や肉は、箏の音色を本当に良いと思っていて、クラシックもジャズも関係なく「音楽」じゃないかと心から思っているのに、どこか自分で決めつけた枠に自分ではまりにいってしまうところがあるのでしょう。

クラシック界で歴史ある音楽之友社の「レコード芸術」で、私の演奏が入ったCDが特選盤に選ばれ、
「箏の演奏のみでのCDを本誌で扱うのは初めてだが、ギターがスペインの『国民楽器』であるように、箏は日本のそれであったはず。不思議な気がする」
と書いて頂き、アレッ、もしかしたら「音楽」として見てもらっているのかもしれないと頑な自分の心が動き始めました。

昨日のコンサートでは、箏の奉納演奏から始まり、なんの違和感なくオーケストラ演奏にうつり、伊福部先生への思いに貫かれた曲目と演奏が続き、最後感動的な「聖なる泉」のオーケストラ演奏で幕を閉じました。

コンサートが終わったあと、クラシック音楽に深く携わっている方々から、心のこもった言葉を多く頂き、その眼差しから、何の先入観もなく、箏を「音楽」として心で聴いてくださってくれたことが伝わり、その気持ちの震えにこちらの心がシンクロしました。

コンサートの前、友達に、「クラシックのファンの人に殺されちゃうかも」と冗談で言っていたのですが、そんな自分を心から恥じました。

心のどこかで自分を縛っているものを皆んながそっと少しずつほどいてくれているのを感じます。
今この世にいる人もいない人も含め、「音楽」を教えてくれる皆さまの優しい心に感謝します。