2014-08-29

2014年8月29日

一日どのくらい練習するの?

こんな質問をされることがあるのですが、毎度のことながら言葉に詰まってしまいます。
別に責められているワケではないのに、言い訳がましい言葉が出てきそうになるのを呑み込んでいるのです。

自分でも呆れるくらい箏が好きなので、空を見ても山並みを見ても、右を見ても左を見ても、だいたい箏に繋がるようなことを考えています。

だったら、ずっと箏を弾いていればいいのですが、ああ弾こう、こう弾こう、と考えるのが長く、楽器を弾き始めるのはだいぶ経ってから…というのは、よくあることです。

世界の巨匠、チェリストのカザルスも、ピアニストのポリーニも、一日八時間とか十時間とか聞くと、そわそわしてきてしまうのですが、そわそわとまず好きな音楽を聴き始めちゃうのです。

もちろんそれは勤勉ではない性質によるものなのでしょうが、段々、単に怠け者だからというワケでもないんじゃないかという気がしてきました。

練習というのは、弾けないところを弾けるようにするという面はもちろんあるのですが、自分が演奏しているのをずっと聴き続けているという意味は決して小さいものではありません。

八時間、カザルスの演奏を聴くのと、八時間、私の演奏を聴くのでは…
カザルスだって納得いく音が出なくてもがいていたと思いますが、前提としての景色の違いは計り知れないほど大きく、本能的にそこにいたいかどうかを身体が分かっているように思うのです。

音楽に対する憧れの気持ちが強ければ強いほどそうであるような気もします。

とは言っても、私も箏を弾き始めるまでの時間が短くなってきました。
背に腹は代えられないということもありますが、実際に弾き始めてから聞こえる「違う違う」という何万回もの心の声が減ってきたのです。

前よりちょっと進歩したということかしら?

出来ないからこそ練習が必要なはずなのに、進歩をしたら前より練習量が増えるというのはなんか矛盾しているような気もします。
でも、身体の声を聞いて生きていると、どうやらそれが自然の流れであるようなのです。

気がついたらそれを長くやっているというのは、身体がその良さを知らせてくれていることでもあるのかもしれませんね。

2014-08-23

2014年8月23日

私はひどい車酔いをする人間です。
それもあって車は見るのもイヤだったのですが、これはちょっと人生を損しているのかもしれないと思い始めて、最近になって車の免許を取りました。

教官の反対を押し切りマニュアルでの教習。
自分が全く知らないことを習得するのにどういう経路を辿るのかというのにも興味があり、日々なにやら実験の様相を帯びてきました。

路上教習でのある日、教官から「電信柱にぶつかりたくないと思った時に、電信柱をじっと見たらダメですよ」のお言葉が。
え!?なんでですか?と聞くと、
「何故だか分からないけれども、電信柱にぶつかりたくないと思って電信柱を見ると、電信柱に近づいて行くんです」

へぇー、そうなんですね、と言いながらもスッキリせずに数日後、狭い道での路上教習でのこと。
左の電信柱が危ないので気をつけなきゃと思って運転していたら、
「ぎゃっ、電信柱に寄っていってますよ」
教官の腰がすっかり引けています。

これか!
ホントだホントだ。
ビビり顔の教官を横目に、ちょっと気の毒に思いながらも、一人で嬉しくなってしまいました。

それが近づきたいものであれ、避けたいものであれ、人は強く意識したものに近寄っていく性質があるようです。

箏を弾いていても、「あ、ここはあそこの絃を間違えて弾いてしまうから気をつけなきゃ」と思ったら、だいたいその絃を間違えて弾いてしまうのもそれかもしれません。

それから意識してみると、普段の生活においても「〜しないようにしなきゃ」と思うと、それに近づいてしまっている自分に気がつくようになりました。
してはいけないとことが頭の中で鮮明にイメージされてしまい、本来の方向性に対する意識が薄くなったことによるのかもしれません。

何が面白いって、人は、イメージしていることに対して持っている価値判断ではなく、イメージそのものの強さに影響を受けるということです。

人生でも多くのことに当てはまるようで、考えているだけで面白いです。

少なくとも、「〜しないようにしなくちゃ」と思わないようにしなくちゃ、とは決して思わないようにしなくちゃ。
あれ!?

2014-08-14

2014年8月14日

リサイタルのチラシが出来ました!
こうやって、チラシを目の前にすると、ムクムクと力が湧いてきます。

今年もチラシ作成は、阿部ちゃんこと阿部耕介さんにお願いしました。今年も心を込めて作ってもらいました。
表のどアップの私の顔は阿部ちゃんが撮ってくれたものですが、阿部ちゃんの「この顔は何かやってくれそうにみえる」の一言に、「何もやらないけどね…」と照れながら、その気になって使ってもらったのでした。

こんなに大きくなるとは思わなかったので、このどアップを見た時にはビックリしたのですが、「何かやってくれそうにみえる」の言葉が妙に気になり、何かやらなきゃマズいんじゃないかという気持ちになってくるのが不思議です。

この時期になってくると、色んな方から、「頑張れー」とか「フレーフレー」とか「レッツゴー」という言葉を頂きます。
こういう言葉は想像以上のパワーがあり、スケート靴を履いて後ろから力一杯押してもらうぐらい、グンとした力を感じます。

まだまだ「こんなところ」じゃないのに、「こんなところかな」と思いそうになる自分の甘さから我に返らせてくれるものなのです。

「こんなところ」が遥か遠くでも、決して決して諦めてはいけない。
一歩でも、いや、半歩でも前へ。
それが私の唯一の恩返しの形でもあるのだから…




2014-08-07

2014年8月7日

「ごきげんよう」
「さようなら」

最近のマイブームと言えば、これです。
これは、朝の連ドラの「花子とアン」でのお別れの挨拶です。

語りの美輪明宏のこれを聞いたとき、その数文字しかない中での表現の豊かさに背筋がゾーっとしました。
私は美輪さんのトゥーマッチさがあまり得意ではなく、遠目で見ている方なのですが、これには完全に脱帽。
それにしても、自分が何に脱帽しているかもよく分からず、それがなんとも歯がゆいのです。

「ごきげんよお」
いやいや。
「ごきげんょう」
似てない。

「さよ〜なら」
いや、違う。
「さよぉなら」
ちょっと近い?
「さょうなら」
全然ダメだ。

というのを、うるさがられながら、毎日繰り返しています。
もう八月になるというのに、なかなか近づけない。美輪明宏、凄すぎる…。
今では、私は「花子とアン」という番組を見ているというよりは、「ごきげんようとさようなら」という番組を見ている気分です。もちろんクライマックスは、最後の数秒。

最近気に入って読んでいる、鴨下信一さんの「日本語の呼吸」で、日本語は頭の文字で音色を使い分けるのが難しく、二文字目で表情をつけると表現が豊かになるのだと書いてありました。それもはっきりとした理由はまだ分からないのだけれど、うまい語り手は無意識にこれをやっているのだとか。

日本語の二字起こし。
四ヶ月目にして大きなヒントをもらい、美輪明宏のを改めて聴いてみました。

あ、「ごきぃげんよぅ」になってる!
二文字目の「き」に軽い揺れが感じられます。

わ、「さよぉうなら」になってる!
二文字目の「よ」に優しい吐息が吹きかけられています。

もちろん全ては美輪さんがこめている心の問題なのだと思っているのですが、ちょっとだけ真似が出来るようになるにつれ、それがいか程大変なことなのかが少しずつ分かりつつあります。

あと三週間で終わり。
脱帽のナゾにどこまで近づけるかしら。