2014-09-26

2014年9月26日

私は本当によく道を聞かれます。
自分の丸顔をいいと思うことなんてありませんが、このときばかりは、この丸さが人の恥じらいを軽減するのかしらと、ちょっといいこともあるもんだわと思っています。

先日はお巡りさんにまで道を聞かれました。
ペコペコするお巡りさんを、「お気をつけてー」と送り出したら、なんかおかしくなってしまいました。
道端でモジモジしていたのですが、職業柄、道を聞きづらかったのでしょうね。
私の顔を見たら、聞きやすそうと思ったみたいで、そっと近寄ってきて、「道が分からなくなっちゃったんです」と恥ずかしそうに言っていました。

人はいつのまにか、お互いが望まれる役割りを果たそうと、自らが自らを縛ってしまうというのはよくあることのようです。
別に望まれていることをやろうと思っていなくても、無意識のうちに手足が不自由になっていき、いつの間にかがんじがらめになっています。
「やめてくれー」と周りを見回すと、誰もいません。
皆、遠くで、何やっているの?という顔で見ています。
好きにすればいいのに、って笑われます。

私もコンサートを続けてやっていると、知らないうちに何かの型みたいなものに自らでハマりにいこうとしていることを感じることがあります。その気配を感じると、いけない、いけない、と慌てて踵を返します。

最近は、周りにこう望まれているのではないかという型があるという考えは幻想に過ぎないのではと感じています。
その幻想の型に自ら縛られにいってしまう怖さ… 

その幻想の型は、自分を楽にしてくれるものなんでしょうね。
今の瞬間、自分が取れる選択肢は何千とあったとしても、その幻想にしがみつけば、選択肢は数個に限定されます。何千の選択肢がそれぞれ何千の選択肢を生むことを考えれば、幻想の縛りにかかるのは、はるかに楽なことです。

周りに縛られているような顔をしながら、実は自分が楽をしようとしていると考えると、ちょっと顔が赤くなります。
可愛げとして許してもらいながらも、少なくとも、その恥ずかしさだけは忘れないでおきたいものです。




2014-09-20

2014年9月20日

この時期がやってくると、あー、そうだったそうだった、なんで忘れちゃうのかな、と深く深く反省します。
喉元過ぎれば…とは、よく言ったものです。私の場合は胃が弱いので、実は喉元過ぎても胃のあたりがアツいのですが、それでもやっぱりそこらへんを過ぎれば忘れちゃいます。

毎年、あー、私はこうやって死んで行くんだなとシミジミ思います。
忘れては思い出し、また忘れ…

と分かったようなことを言ってみたところで、本当は死ぬ時のことなんか分かりっこないことぐらい分かっています。
想像力に限界があるからこそ、喉元過ぎれば…になるのですもんね。

私のお気に入りに、一休禅師の辞世の句の一つと言われる句があります。

  昨日まで
     人のことよと 思いしに
  今日は我が身か
      こいつ たまらぬ

友人のお坊さんのの留守中に、そこにあった阿弥陀如来像を枕がわりに昼寝をするなど、アニメのイメージとは違い、豪放で有名だった一休さんのこの言葉には、マイッタマイッタ感が滲み出ていて、思わず手を差しのべたいような気持ちになります。

でも、瞬間に、そう感じる自分こそが、やはりひとごとで感じている証拠であるのだと悟らされます。
この句は、そういう人間の想像力の限界を突きつけるものであるように感じるのです。

そして、八十八歳の一休さんが最期に口にしたと言われるコトバも、ちょっと気に入っています。
人間として生きるのはそんなに悪くないのかもしれないな、という希望を抱いちゃうのです。

「死にとうない」
こんなコトバで息絶えるくらい、私も人生を面白がれるかしら。


2014-09-14

2014年9月14日

『嗟歎』という曲を書いています。
これは『さたん』と読み、嘆き悲しむことを表す語です。
「え!あのサタン?」
「いや、違います違います、悪魔ではありませんよ」
というやり取りをもう何度かしています。

先日も友人がじっと『嗟歎』のふりがなの『さたん』を見ているので、いつものやり取りの心の準備をしていたら、
「え!サンタ?」
っていうので、思わず大爆笑してしまいました。
あんなに悲しい気持ちを表している曲のはずが、頭の中に急にジングルベルが鳴り響き始めて、それもそれで正しいような気がしてきます。

それにしても、皆が眉をひそめるサタンと、誰もが明るい気分になるサンタが、こんなに似ているとは今まで気がつきませんでした。
両方のイメージがかけ離れ過ぎると、言葉が似ていても連想出来ないのですね。

まさかね。
と思いながら、念のため調べたら出てくる出てくる。

12月25日はキリストの誕生日であるだけではなく、悪魔サタンと言われるニムロドの誕生日であり、物欲をなくすように諭したキリストをあざ笑うかのように、物欲に駆り立てるサンタを作り出し、人々を堕落させようとした…

サンタを、特に子供を物欲の虜にする象徴として考えたことなんてありませんでしたが、考えてみたら、幼い頃、クリスマスツリーの下にプレゼントが積み上げられている外国の映像を見て、なんとなく居心地が悪い気がしたのを思い出しました。
私の小さい頃は質素であることを美徳とする傾向が強く、それが自然に身についていたのでしょうね。

それから長い年月が経ち、クリスマスが近づくと私も少し開放的な気持ちになるようになりました。
物欲に身を委ねる快感を知ってしまったのかしら。

人間がそもそも持っている欲を露わにして自分の存在を誇示するサタン。
サンタを登場させてまでそれを突きつけて、人間の欲にしがみついているようにも見えます。
人間の浅ましさを高らかに笑いながらも、それがなくなる日が来ることに恐れおののいているのかもしれません。

そう思ったら複雑な気持ちになってきて、嗟嘆がサタンでもサンタでも大して変わりがないわね、とふたたび箏に向かったのでありました。

2014-09-04

2014年9月4日

困った時の神頼みと、よく言いますが、こちらの身勝手さをあざ笑うでもなく、そういう時に姿を現す何者かにいつも驚嘆の念を抱きます。

昨年のリサイタル前も相も変わらず悩みの多い日々でした。どうしたら良いだろうか、ということを書き出したら、紙の外にはみ出してもいつまでも手が止まらないかのようでした。

特に作曲では頭を抱えていました。リサイタルまであと一ヶ月というのに、作曲の途中で行き詰まってしまったのです。
作っていたのは、「無碍(むげ)」という曲。融通無碍という言い方もありますが、私の自由への思いをこめたものでした。
抽象的な題材なだけに、糸口が見つからず、悶々として時間が過ぎるばかり…

今日こそは、と外出先から戻ってきてポストを見ると、大きな封筒が入っていました。
差出人は、尊敬する人生の大先輩。
「これを読んで頂きたくて…」の短いお手紙に添えられていたのは、ある本の一部分のコピーでした。
読み進めて驚きました。
まさに、私が作曲で考えていた内容についての深い考察だったのです。

もちろんその方は、私が「無碍」という曲を作っていることはおろか、私が作曲中だったこともご存知ありません。
その文章に没入して、考えること数時間。
そのあと箏の前に座った時には、自然と音が流れてきて、深い感謝とともに最後の音を書き留めました。

こういうことに巡り会うたびに、自分は世界の仕組みについて、肝心なことは何一つ分かっていないのであろうということを思い知らされます。
でも、何者かがこうやってたまに知らせてくれるので、何かに守ってもらっているという安心感のようなものがあります。

…と書くとノンビリしているようですね。
実は、そのお知らせを見逃さないよう、キョロキョロしながら、アンテナをぐるぐる回す毎日です。