2016-03-20

2016年3月20日

ついに、CD「伊福部昭 二十五絃箏曲集」を手に取る日がやってまいりました。

最初にそのお話を頂いたのが、4年前ぐらいでしょうか。
伊福部作品をとにかく好きな気持ちだけでリサイタルで弾かせて頂いていたのですが、これは、あるリサイタルで「胡哦」を弾いた後に頂いたお話でした。

それは絵本の中の主人公に突然話しかけられたような気分で、目を白黒させながらも、浮きたつ気持ちを抑えきれなかったのですが、「好き」という気持ちは不思議な微妙さを持つものですね。

その絵本の中に自分が入ると、伊福部先生の深遠なる世界を壊してしまうのではないのかとの思いで足がすくんでしまったのでした。

リサイタルで弾いたとはいえ、それは生ならではの、別な価値観を持つもの。
私のちょっとした良さといえば、おそらく、思いが強く、緊張症を乗り越えてその場で死にものぐるいの演奏をし、それが何とか音に乗ることです。演奏そのものの精度などは話になりません。

録音用の練習を始めたら、案の定でした。どんなに練習しても思い通りにならず、かといって身体が壊れるまで練習したくても、録音当日に使い物にならなければ、イメージから更に離れるだけです。
その一歩手前という細い綱をそろそろと渡る緊張の日々でした。

それにしても、伊福部先生の二十五絃箏の作品は本当に難しい。
単に弾くだけでも難しいのに、単に弾くにとどまることを曲は許してくれず、深い理解を求めてきます。悩みすぎて、大きな大きなおもりを足につけ、ずるずると這うことしか出来ません。

好きであるということは、自分を動かす大きな原動力になります。私はそれだけで生きてきたようなものです。
でも、そこまで好きだと、現実とのギャップに鈍感になれず、一つひとつのことが自分に突き刺さりました。

結局、出口が見えないまま迎えた、ホールでの録音。
全てを天に任せるしかなく、こういう時だけ神頼みすることに、神さまは呆れ顔だったことでしょう。

録音が始まったら、やっぱり私は私以上のものではなく、コンサートの時のように、生まれ死ぬ一音に全てをこめるだけでした。

それももう2年前のこと、今だったらこう弾けるのに、ということもありますが、無我夢中のその演奏のあと、両脇がひどい火傷になったあの熱意がこのCDにはこめられているような気がして、愛しさがこみ上げます。

全てはこれからです。
このような得難い機会を与えて頂いたことの恩返しは、これからの自分を見て頂くしかありません。
ごまかさずに一歩一歩進むだけです。

好きであるということは好きであることでしか乗り越えられないのでしょうね。
そんな好きなことがあることに感謝して。