2016-06-19

2016年6月19日

この度の引越しを機に、自宅で箏を教え始めることにいたしました。

色んな思いはありますが、突き詰めれば理由はただ1つ。
それぞれが自分の中に響く音を知ってもらえたら嬉しいな。

おそらく私は、端から見ても恥ずかしいぐらい箏が好きですが、いつまで経っても上手に弾けるわけでもなく、うまくいかないことだらけで、それがストレスの元になることもあります。

またそれだけではなく、生きているといっちょまえに心が乱れるようなことも多々あります。

中国の昔の文人たちは琴を弾じることをよくしましたが、その一音には自分の心が現れ、その音を通じて自分を知ることも出来るようです。
私は自分の音に、人としての未熟さを思い、どう生きるべきかを考えさせられます。

でも、箏の前に座り、一音、そして一音とそれらが生まれては消えていくのと共にいると、不思議と心が安らかに慰められます。
山に生えていた大きな桐の木が、それぞれの声で空気を震わせます。大きな木のもとで柔らかな風に吹かれているかのようです。

人間としても演奏家としても未熟な私に教わる方には申し訳ない気がしますが、箏を通じて、木の声を、自分の声を一緒に聞いてくれる仲間となって頂けるとしたら、こんなに嬉しいことはありません。

そんなことをひたすら考えているだけですので、普通のレッスンの形式にはならないかもしれません。
箏は個人個人に寄り添うもので、人によって必要とするものは違うように感じています。
もちろん、古典を中心として初歩からきちんと積み上げていくレッスンを基本としますが、単に箏を触ってみたい方には数回だけいらして頂き箏を感じて頂いたり、箏を学校で教えたい方には合奏に向いている曲を一緒にアレンジをしながら方向性を探ったり、とにかくお互いの心が躍るような時間にしたいと思っています。

箏と地歌三絃がセットになることが多いのですが、箏がある程度弾けるようになれば、三絃(三味線)と二十五絃箏のレッスンもいたします。

基本は、お稽古日は月曜木曜とし、月3回、1回1時間3千円といたします。それぞれお仕事などの事情がおありだと思いますし、月曜木曜にいらっしゃれない方は、お互いが合う日があればその日に。回数も1回からで、ワンレッスン1時間3千円とさせて頂きたいと思います。
お友達同士でいらして頂いても楽しいかもしれませんね。

旅先の1回でもどうぞ。


どんな音を見つけて頂けるでしょうか。
私の中の音もどのように変わっていくのでしょうか。
それを考えただけでも顔がほころんできます。



                      お問い合わせはこちらへ
                         contact@satoyasuko-koto.com

2016-06-12

2016年6月12日

引越しをしました。

箏の練習を口実に、荷物の山を見て見ぬフリをしていましたが、目の前の山は動く気配なし。
やむを得ず荷ほどきを始めました。

こういう時に限って、懐かしいノートが目の前に現れるんですよね。
『道徳ノート』とやらが出てきました。
そういえば、小学校の時、道徳の授業がありました。ほとんど覚えていないのですが、ノートの内容からすると、ドラマ形式のテレビ番組を見た後に、感想を書いて提出するという授業だったようです。
多分適当に書いたであろう感想にも、先生の赤ペンの字が丁寧に添えられています。

道徳の最後の授業は、自分から自分への手紙を書くというものでした。
メモ書きとして、長所と短所が書いてあるのですが、長所には1つも書いておらず、短所がずらりと並んでいます。
その短所は今の私の課題でもあることばかりでガックリ。人類は進歩するのかという命題まで頭をよぎります。

そして、こんな手紙が書かれていました。

「康子さんから康子さんへの手紙

康子さん元気ですか?
入学からもう5年10ヶ月。
友達がたくさん出来て、とってもついていたね。
転校する悲しさも知らずに、とても良い環境に育ったね。
でも、今のクラスの3分の2の人が転校してきたことを忘れてはだめだよ。
他の人たちの気持ちも察してあげようね。

あなたは、少し人の気持ちを考えてあげる、優しい人にならなきゃだめよ。
口が悪い上におしゃべりだから、たくさんの人の心を傷つけているんじゃない?
このためにも、深くものごとを考えるようにしなくちゃね。

また、あなたは働こうとする気持ちが全くないわね。
そうじなど、不真面目すぎない?
まず、根気から作らなくっちゃ。

さて、中学に入ったら、一から新しい気持ちで過ごして、良い性格を作っていこうね。」

そして、先生の赤ペンの文字が、そうじの行の横に添えられています。

「不真面目というより、真剣味が欲しい」

……はい、先生、引越しのお片づけを真剣にやります!

2016-05-08

2016年5月8日

昨日、「伊福部昭百年紀 4〜十年祭に寄せて」コンサートでの奉納演奏を無事に終え、全身筋肉痛の真っ只中にいます。

実は、オーケストラ、声楽の方々の重厚感ある演奏の前に、箏という楽器を1人で演奏させて頂くということで、かなり緊張感ある日々を過ごしていました。

テクニカルな点でコンプレックスがある私は、自分の奏でる箏の演奏を、西洋のクラシックの世界の方々に「音楽」として扱ってもらえないような気がして、ある種の劣等感を抱いてしまっていたようです。

自分の血や肉は、箏の音色を本当に良いと思っていて、クラシックもジャズも関係なく「音楽」じゃないかと心から思っているのに、どこか自分で決めつけた枠に自分ではまりにいってしまうところがあるのでしょう。

クラシック界で歴史ある音楽之友社の「レコード芸術」で、私の演奏が入ったCDが特選盤に選ばれ、
「箏の演奏のみでのCDを本誌で扱うのは初めてだが、ギターがスペインの『国民楽器』であるように、箏は日本のそれであったはず。不思議な気がする」
と書いて頂き、アレッ、もしかしたら「音楽」として見てもらっているのかもしれないと頑な自分の心が動き始めました。

昨日のコンサートでは、箏の奉納演奏から始まり、なんの違和感なくオーケストラ演奏にうつり、伊福部先生への思いに貫かれた曲目と演奏が続き、最後感動的な「聖なる泉」のオーケストラ演奏で幕を閉じました。

コンサートが終わったあと、クラシック音楽に深く携わっている方々から、心のこもった言葉を多く頂き、その眼差しから、何の先入観もなく、箏を「音楽」として心で聴いてくださってくれたことが伝わり、その気持ちの震えにこちらの心がシンクロしました。

コンサートの前、友達に、「クラシックのファンの人に殺されちゃうかも」と冗談で言っていたのですが、そんな自分を心から恥じました。

心のどこかで自分を縛っているものを皆んながそっと少しずつほどいてくれているのを感じます。
今この世にいる人もいない人も含め、「音楽」を教えてくれる皆さまの優しい心に感謝します。

2016-03-20

2016年3月20日

ついに、CD「伊福部昭 二十五絃箏曲集」を手に取る日がやってまいりました。

最初にそのお話を頂いたのが、4年前ぐらいでしょうか。
伊福部作品をとにかく好きな気持ちだけでリサイタルで弾かせて頂いていたのですが、これは、あるリサイタルで「胡哦」を弾いた後に頂いたお話でした。

それは絵本の中の主人公に突然話しかけられたような気分で、目を白黒させながらも、浮きたつ気持ちを抑えきれなかったのですが、「好き」という気持ちは不思議な微妙さを持つものですね。

その絵本の中に自分が入ると、伊福部先生の深遠なる世界を壊してしまうのではないのかとの思いで足がすくんでしまったのでした。

リサイタルで弾いたとはいえ、それは生ならではの、別な価値観を持つもの。
私のちょっとした良さといえば、おそらく、思いが強く、緊張症を乗り越えてその場で死にものぐるいの演奏をし、それが何とか音に乗ることです。演奏そのものの精度などは話になりません。

録音用の練習を始めたら、案の定でした。どんなに練習しても思い通りにならず、かといって身体が壊れるまで練習したくても、録音当日に使い物にならなければ、イメージから更に離れるだけです。
その一歩手前という細い綱をそろそろと渡る緊張の日々でした。

それにしても、伊福部先生の二十五絃箏の作品は本当に難しい。
単に弾くだけでも難しいのに、単に弾くにとどまることを曲は許してくれず、深い理解を求めてきます。悩みすぎて、大きな大きなおもりを足につけ、ずるずると這うことしか出来ません。

好きであるということは、自分を動かす大きな原動力になります。私はそれだけで生きてきたようなものです。
でも、そこまで好きだと、現実とのギャップに鈍感になれず、一つひとつのことが自分に突き刺さりました。

結局、出口が見えないまま迎えた、ホールでの録音。
全てを天に任せるしかなく、こういう時だけ神頼みすることに、神さまは呆れ顔だったことでしょう。

録音が始まったら、やっぱり私は私以上のものではなく、コンサートの時のように、生まれ死ぬ一音に全てをこめるだけでした。

それももう2年前のこと、今だったらこう弾けるのに、ということもありますが、無我夢中のその演奏のあと、両脇がひどい火傷になったあの熱意がこのCDにはこめられているような気がして、愛しさがこみ上げます。

全てはこれからです。
このような得難い機会を与えて頂いたことの恩返しは、これからの自分を見て頂くしかありません。
ごまかさずに一歩一歩進むだけです。

好きであるということは好きであることでしか乗り越えられないのでしょうね。
そんな好きなことがあることに感謝して。

2016-02-09

2016年2月9日

伊福部昭十年祭記念会「伊福部昭綴るII」(小林淳著)出版記念会にて奉納演奏させて頂きました。
全国各地から伊福部先生に思いを強く持ってらっしゃる方々が集まり、皆で色んなものに耳を傾け、感じ合う時間となりました。

伊福部先生と皆さまの歴史は長く、30年、40年、お互いに交流を深めていらしたそうです。それぞれ、もう阿吽の呼吸でやり取りしています。
きっかけはクラシック、怪獣映画のだいたい2つに分かれるようですが、皆さま伊福部音楽に魅了され、それが人生の一部になっている方々ばかりです。

私は、20年前に初めて伊福部先生作曲の箏曲を聴き、深く潜っていきながら高揚していくような不思議な感覚に覆われ、感動と興奮で、コンサートが終わったら目の血管が切れていたことが始まりです。その後25絃箏に転向し、10年前からほぼ毎年リサイタルで伊福部作品を弾かせて頂くようになりました。
最初に演奏させて頂いたのが、伊福部先生が亡くなった年で、それこそ雲の上の方であり、私は楽譜を通じてひっそりと先生と交流してきました。

音楽というものは何か、民族とは、歴史とは、哲学とは……
これらのことを少しずつそのひそやかな交流から学んできました。
そして、もっとシンプルなところで、伊福部音楽に揺り動かされる肉体と心。
私にとっての恩師とも言えるような気がします。

新参者の私ですが、このたびの記念会でもとても温かく迎えて頂きました。
伊福部先生にご恩返しをする機会として、肩に力が入ってしまう私を、ご子息の伊福部極さま初め、企画された伊福部昭百年紀の方々が優しく励ましてくださいました。
全国からいらした伊福部ファンの皆さまも熱く柔らかく、その方々とお話出来たのも忘れ得ぬこととなりました。
緊張していたのに、大口開けて笑っている写真ばかり残っているのは、演奏云々を越えた嬉しさによるものですね。

今回のことで、また色々と考えることがありました。
それはまたおいおい書かせて頂きたいと思います。

2016-01-11

2016年1月11日

今年は私がその音楽を愛してやまない作曲家伊福部昭が亡くなって十年目にあたる年。
伊福部家は由緒ある神官の家系なのですが、神道では、歿後十年でご先祖様の仲間入りをされるそうで、盛大にお祝いするそうです。

この十年祭のお祝いと文筆家の小林淳さんの『伊福部昭綴るII』出版記念パーティーが2月7日に行なわれます。
そこで畏れ多くも奉納演奏させて頂くことになりました。来月、十年祭を記念して出されるCDで弾かせて頂いた「胡哦」を演奏いたします。

先日実行委員長の鈴木正幸さんをはじめ、関係者の皆さまにお会いしたのですが、自我のない、その思いの強さに心を大きく動かされました。何かが起こる時間になるように感じます。

ご興味おありの方、ご出席頂けましたら嬉しいです。小林さんのご本、第一弾が素晴らしく、今度はその第二弾。これも楽しみでたまりません。


以下、実行委員長の鈴木正幸さんによるご案内の文章です。

2016年は、日本楽壇の泰斗かつ日本映画音楽界の巨人 伊福部昭(1914-2006)の歿後10年の節目の年にあたります。神道では歿10年を〈十年祭〉として盛大に謳い、故人を偲びます。スリーシェルズ、伊福部昭百年紀も種々様々なコンサート、イベントに関わっておりますが、ご長男の伊福部極氏の製作による十年祭CDの製作報告、並びにスリーシェルズ所属の小林淳による『伊福部昭綴るII』の刊行をご紹介し、「伊福部昭十年祭」を新宿で開催します。

●伊福部昭百年紀主催「伊福部昭十年祭──『伊福部昭綴るII』刊行ー」開催決定お知らせ●


日本楽壇の泰斗かつ日本映画音楽界の巨人であります伊福部昭先生(1914-2006)がご逝去されましてから早10年が経過いたします。2016年は伊福部先生の歿後10年の大きな節目の年にあたります。神道では歿10年を〈十年祭〉として盛大に謳い、故人を偲びます。それに呼応いたしまして音楽界におきましても種々様々なコンサート、イベントが企画されております。

伊福部昭百年紀も昨年(2014年)の〈伊福部昭生誕百年〉のムーブメントの一端を担わせていただきました経験をふまえまして、〈十年祭〉でも伊福部先生のご業績を後世に伝え、ファンの皆様に楽しんでいただけるような催し物を鋭意企画しております。

つきましては、その一環といたしまして、司会に井上誠氏をお迎えし〈伊福部昭十年祭〉を迎えます2016年2月8日の伊福部先生のご命日に合わせ、伊福部昭百年紀による「伊福部昭十年祭」記念会を企画いたしました。また、伊福部昭百年紀スタッフの一人であります小林淳(映画関連文筆家)が〈伊福部昭十年祭〉記念企画として編集いたしました『伊福部昭綴るII──伊福部昭 論文・随筆集──』(ワイズ出版刊)が2月初旬に全国発売の運びとなります。その出版のご紹介も兼ねまして、伊福部先生のファンの皆様、伊福部先生ご関係者の皆様とともに、〈伊福部昭十年祭〉に祝意を捧ぐ会を挙行させていただきたいと存じます。

当日は伊福部家ご長男・伊福部極様を主賓にお招きいたしまして、十年祭CDの製作報告等々、皆様とご一緒に伊福部先生の思い出、伊福部昭先生が遺されました音楽遺産に想いを馳せるお話などで楽しい時間を過ごしたいと思っております。開催会場の「中国料理 桃里」は、極様がご両親とお食事を楽しまれた思い出のお店と仄聞いたしております。伊福部先生が舌鼓を打たれたお料理を味わいながら、皆様と〈伊福部昭十年祭〉をお祝いいたしましょう! 多くの伊福部先生ファン、伊福部音楽ファンの皆様のご参加を賜りたく、ここに謹んでご案内をさせていただきます。

日時:2016年2月7日(日曜日)/12:00開始(受付:11:45)より(2時間ほどを予定)

場所:ホテルオークラレストラン新宿「中国料理 桃里」 (〒163-0550 東京都新宿区西新宿1-26-2 新宿野村ビル48FコンファレンスB(貸し切り)/電話03-3345-0598)

会費:10,000円(当日、受付にして頂戴いたします。なお、会費には当日配布されます『伊福部昭綴るII──伊福部昭 論文・随筆集──』代金も含まれます)

本会のご参加には事前予約が必要となります。ご参加希望の方は伊福部昭百年紀:鈴木正幸までご連絡をお願い申し上げます。

申込み先:urano-rakuda@ezweb.ne.jp

上記アドレスにタイトル「伊福部昭十年祭 記念会」と明記され、本文にご芳名、ご連絡先、参加人数等をご記入され、お申し込み下さいませ。

本会はスリーシェルズ・西耕一、鈴木正幸、小林淳、矢内露紀等、2015年5月の新宿都庁における「宝田明:盤寿を祝う会」、10月のクルーズクルーズ池袋店における「中野昭慶:傘寿を祝う会」のスタッフが運営に携わります。伊福部昭百年紀では当日、複数のサプライズを企画しておりますので、こちらのほうにもご期待をお寄せいただきたいと思っております。
なお、堅苦しさのない、ざっくばらんとした打ち解けた会にしたいとの私どもの想いもございまして、当日は平服でご来場いただきたく、お願い申し上げます。

皆様のご参加を伊福部昭百年紀一同、心よりお待ち申し上げております。

伊福部昭百年紀
お問い合わせ 担当:鈴木正幸 TEL090-1421-8931


2016-01-06

2016年1月6日

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

今年の元日明けは山寺へ。
小学生低学年の時に一回行ったきりです。
階段がいつになっても目の前に立ちはだかり、でも、性格的に弱音は吐けず、心の中で「もうここには来ないぞ」とこっそり誓いました。

それからン十年。山寺のニュースを見るたびに、「みんなよく行くな」とあの日の誓いを思い出していました。
岩登りで山寺の麓に行ったこともありましたが、クライミングの合間に、目の端で崖の上のお寺を追うだけ。その時登っている岩よりもはるかに高く厳しいものに感じたのでした。

ところが、つい、山寺に行ってしまいました。
調子に乗る性格ゆえの成り行き、なのですが、良く言えば、昨年向き合った歌のコンプレックスのことがあったのかもしれません。

充分な装備をして、いざ出陣!
…と、思ったら、20分後には頂上に着いていました。

呆気にとられてしまいました。
ずっと頭の中でそびえ立っていたあの山はどこ?

頂上を目の前にして現れる最後の階段では、1段上るごとに煩悩が1つずつ減っていくのだとか。
だいぶ辛くなってきて、あれこれ考える余裕がなくなってくる頃に現れる階段です。
1段上がるごとに考えられることが1つずつ減っていき、そうして考えることを1つずつ落としながら前に進む力を得ているといった感じです。

ということは、煩悩は、人が考える力を持ったがゆえに持たされてしまったものだということなのでしょうか。
考えるということは自分のかけがえのない財産ではありますが、考えるからこそ煩悩の元になるものが生まれ、考えるからこそその煩悩に気がついて苦しみ、そしてその場で足踏みをします。

最後の階段を上りきった時、そんなことだけを考えていました。

そうでした。考えたからこそ、葛藤を生み、山寺にも登りたくなかったのです。
でも、本当は20分で登れるところでした。

さて、では、考えなければいいのか。
いや、考えなければ向かうべきところすら見えません。

考えるということをどのように考えるか。

…さあて、今年は何をしようかな。

なんて、余裕なことを言っていますが、次の日は筋肉痛で歩くのすら大変でした。
まずは身体を鍛えた方がいいですね。