2014-10-23

2014年10月23日

先週の土曜日、無事にコンサートを終えることが出来ました。
いらしてくださった皆さま、遠くから励ましてくださった皆さま、本当にありがとうございました。

アンケートやメール、フェイスブックでの温かいメッセージがありがたくて、誰もいないのに、涙目で頭をペコペコ下げています。

来年こそは、遠くに見えるあの理想に近づくんだと心に誓うのですが、歩みが遅すぎて、月日が流れる早さに置いていかれてしまいます。
今年も、どんな奇跡が起ころうとも理想には一歩も近づけないという状況でコンサートを迎えてしまったこと、心から申し訳なく思います。

今の私に出来ること…。

良いものを作ろうなんて、絶対に勘違いしてはならない。
弾き方も分からない、精神の深みもない、それをそのまま送り出すことが私が出来るすべてなのだと腹を括りました。

そして、チラシにも書いたように、音を聴くものとしてだけでははなく、触るものとして感じて頂きたいという思いがありました。音は私の手を離れれば、もう私のものではありません。音自体だって私たちのように人と触れ合ったり、気持ちを通わせたりしたいのではないかという気がしていました。

コンサート会場は、六角堂の建つ秋の野のようでした。
一音出した時に驚きました。
音がリハーサルよりずっと響くのです。

音は人の服などに吸収されて小さくなると言われます。お客さまに沢山いらして頂いたので、力を随分入れないと音が響かないであろうと思っていました。
それでも良い音を出そうとは思わないようにしようと決めていました。
その時の自分であることだけを願ってはじきました。

その音が渡っていきました。
もちろんそれが途中で良い音に変わるわけではないのですが、会場中で手渡しをして回してくださっているようでした。

私の音が皆さんに触って頂けて、響きを大きくして頂いて、喜んでいるかのようでした。

自分の悩みは悩みそのままに、お話もさせて頂きました。それを共有して頂いているのも感じました。
失敗してもその一瞬にかける勇気が出ました。

本当はもっともっと良い曲なのに、もっともっといい音が出るはずなのに、との思いはあります。
いつかは…という希望は捨ててはいません。

でも、私にとっては、あれ以上の時間はないのではないかとも感じています。

この一音を響かせて頂く。
そこに、私が生まれてからずっとして頂いていること、そして、この瞬間にもして頂いていることすべてが含まれているように思います。

自分がこの自然の中で、周りにいかに助けられて支えられて生きているのか……

心から感謝しております。
そして、もっともっと精進してまいります。
本当にありがとうございました。

2014-10-10

2014年10月10日

音を奏でる身でありながら、一番美しいのは静寂だと思っています。   

自分が一音出すことにより、その美しい静寂をかき消してしまうという罪悪感にずっと苛まれてきました。
弾く前に申し訳なさそうにしていると、よく指摘されましたが、そういう奥底にある気持ちが自分をそうさせてきたのかもしれません。

静寂に音をのせる。
真っさらのものを異質のもので乱す……。
皆んなで共有している美しいものを自分のエゴで穢しているような気がしてなりませんでした。

そして、静寂について考えるようになりました。

静寂を感じるとき。
それは、夜のとばりが下りる頃であったり、しとしとと降る雨を避けて岩陰で膝を抱える時であったり、誰もいない砂浜で海と向き合っている時だったりします。

よく考えてみると、静寂には無数の音が含まれていました。
木が軋む音、葉っぱに雨粒があたる音、風が波を撫でる音。何も音がしないと思えば、耳の中で血が流れる音が強さを増します。

静寂と無音とは全く違うものなのです。
私の奏でる音は、静寂と異質なものではなく、やはり音なのでありました。

その無数の音がなぜ静寂を感じさせるのでしょう。
無数の人間の声は、それがどんなに小さいものでも静寂を作ることはないように思います。

これはすぐに答えが出ることではなさそうです。
でも、その音に自我があるかどうか、ということが一つあるのだと思っています。
自分の存在を主張するような音は静寂たりえないような気がしています。

静寂を自分の音で乱すことを恐れるのではなく、静寂が内包する精神性を学び、その精神性に倣った音を奏でることこそが自分が取るべき道なのでしょうね。

さあて、いよいよ来週はコンサートです。

途上の自分をごまかさずにいられる自分でありますように。
そして、みなさんと心で触り合えますように…

2014-10-02

2014年10月2日

急に弾けるようになる瞬間、それは音が聴こえた瞬間です。

音が聴こえる。

なんてことないようですが、これが本当に難しいのです。
無意識のうちに自ら聴こえなくしている音のある部分を見つけるのは、ないものを探すことと同じで、そもそも探そうという気持ちにまで辿り着きません。

何かの違和感を敏感に察知して、あるのではないかと仮定して神経を研ぎ澄ませていないと出会えないものです。
息を殺してそれを待ち、それがそこにあることに気がつくと、段々その姿が色濃くなっていき、そこに最初からあったものとして存在し始めます。すると、今度は周りの色んな場所にその姿を見つけることが出来るようになります。
そうやって聴こえ始めると、自然とその音が出せるようになっています。

これは音楽だけではなく、さまざまなことに当てはまることなんだろうと思います。
私には目があり、耳があり、舌があり……
でも、ほとんど見えておらず、聴こえておらず、味わえていないであろうことは、音楽でのこの作業を通じて想像がついていることです。

リサイタルを前にして、自分がほとんど気がついていない人間であることを認め、今になっても音を聴こうと耳を澄ませているというのは、私らしく迂遠なことだと苦笑いしてしまいます。

でも、辺境の地に出かけなくても、見たことがないもの、聴いたことがないことに出会える喜びはえもいわれぬものです。

そこにあるのにないものを
そこにあるからあるものに……