2015-05-26

2015年5月26日

あれ?
なんかお茶が美味しくなくなっている…

小学生の頃だったでしょうか。
読んでいた三浦綾子さんの小説の中で、絶妙に美味しいお茶を淹れる女の人が出てきました。
なぜかそれに心惹かれ、お茶の価値など分からぬままに、「いつか美味しいお茶を淹れられるようになりたい」と強く願いました。

お茶といっても、茶道のお茶ではなく、普段に飲むお茶です。
ですから、形式にはこだわらないのですが、それだけに美味しさの基準もはっきりしません。
とにかく「あ、美味しい」と感じられればいいということです。

私は今まで、二度ほど、お茶を飲んで感動したことがあります。

同じ人間でも、その日の体調や気分、天候などで、感じ方や好みまでもが変わってきます。
相手のことをあれこれ想像しながら日々試行錯誤するのですが、結局、今まで一回も満足いくものになったことはありません。

とは言え、あがき続けているだけに、少しずつ良くなってきていました。
ところが、先日、ハッと気づいたのです。

お茶が美味しくなくなっている…

どうしてだろう?
いつからだろう?
だいたいにして、なんでお茶が美味しくなくなっていることに気がつかなかったんだろう?

しばらく記憶を辿り、アッと思い当たることがありました。
一か月ほど前のことでした。皆はどういうお茶の淹れ方をしているのだろうと思って、検索しまくったのです。
検索すると、出てくる出てくる。お茶のお店や、茶道家などの、美味しいお茶の淹れ方が沢山出てきました。

なるほどなるほど、と思いながら、グラム単位でお茶っ葉を計ってみたり、温度計を突っ込んだり、それに書いてある、正しい量を目や指で覚え、それを再現すべくあれこれとやってみました。
今までのやり方にそれを付け加えて、前より美味しいお茶を淹れるはずだったのです。

正直言ってこの実験のことさえ忘れてしまっていたのですが、よく考えてみると、あの日以来、お茶を真剣に淹れなくなったようです。お茶を淹れる時に、相手の顔色やその日の空模様などを考えることが減っていたのでした。
完全に無意識なのですが、おそらく、「正しい」と思われるようなものをインプットしてしまったがゆえに、不安を持ってあちこちを見回す神経の鋭敏さが失われてしまったようなのです。

検索をすることの恐さ。
教わることの恐ろしさ。
自分では気がつかないところで、大きな力を奪われています。

それに気がついた時、なんの感動も生まないそのお茶を前にしながら、しばし呆然としてしまいました。

お茶が道としてある意味もうっすら感じつつ…






2015-05-08

2015年5月8日

かげろひてコンサート、無事に終わりました。
川合牧人さんの展示会のひとコマでしたが、50人以上の方々に会場を彩って頂き、賑やかでありつつ静かな一体感を味わえるといった得難い時間となりました。

今回のコンサートのための自作曲「かげろひて」を含め四曲を演奏することにしたのですが、川合さんからの「馴染みやすい曲などにする必要はないので、とにかく佐藤さんがふさわしいと思ったものを」との言葉があり、考えていたら結局大曲も選んでしまっていたのでした。

と、やる気はマンマンだったのですが、考えてみたらリハーサルが一切出来ない状況です。直前の直前まで展示物だけの世界であり、寸前に舞台を設置してヨーイドンです。
一つ一つ不安要素を消して緊張を少しでも和らげるやり方を取るアガり症の私には、だいぶ困った状況です。

練習しながらも、「こんなんじゃダメだ」「こんなようじゃ突然の本番ではもっと崩れちゃう。お客さまの大切な時間なのに。せっかくの展示会も興ざめだ…」と蒼ざめる日々。

「もうっ、なんでミスしちゃうんだろう」
ミスした自分を責めようとした瞬間思い当たりました。
「あれ?」
「今私はミスする音をちらっと思い浮かべてたんだ…」

よく考えてみました。

一瞬他の音を思い浮かべて間違えてその音を出してしまっていること。
思いが強すぎて勢い余って隣の絃まで弾いてしまうこと。
心配になって遅くなること。
気持ちが高ぶって音がひっくり返ること。
焦ってどんどん早くなること。

私はその時の私に忠実に音を出していたんだ…

そうです。
楽譜通りではないのですが、私通りに音を出していたのです。
私はそのときの私通りの音、私が思い浮かべた音を出しているので、私が私を責めても仕方ありません。

結局はそれが今の段階の私なのです。
そのミスは偽りのない私なのであり、それが今の私の音楽なのです。
素の私を聴いて頂く。未熟な私がお客さまに向き合える方法はそれしかないのです。

私は思い浮かべた通りのミスを弾く。
これは私を随分自然体にしてくれました。
この考えには賛否両論あるとは思います。ただ、もちろんそれは精進する気持ちを減じるものではありません。

そうして迎えた本番。
思い浮かべた通りの弾き間違いもし、思い浮かべた通りの弾き急ぎなどもしながらも、どの瞬間も偽りなくいられたような気がします。

また一つ飾らない自分になれたのはあの空間のおかげのような気がします。

いつか…
偽りのない自分のままに、心の底からよいと思えるものを作れることを夢見て。