2014-04-30

2014年4月30日

「あ、バカになっちゃったんだね。なかなか治らないんだよねー」
と言って、人を怒らせたことがあります。

相手が怒ってしまったことにビックリして、「だって、ほらほら」と、そこを指差すと、ますます怒ってしまいました。
私は心配して言っているのに相手が本気で怒るということに心底驚き、しどろもどろでやり取りしているうちに、やっと、『バカ』という言葉が不適切であったことに気がついたのでした。
東京に出てきて間もなくの頃です。

宮城では目に出来るものもらいのことを『バカ』と言います。
私は目のものもらいを心配して声をかけていたのですが、客観的に見たら、相手の顔を指差しながら罵倒していたわけです。
そのとき、訛り以外の地域性で意識しておいた方がいいことがあると知りました。

私が生まれ育った地域では、セイタカウコギのことも『バカ』と言います。
その黄色い花が秋になるとチクチクしたものになり、服にくっつきまくります。それをぶつけ合って、くっついたのを必死ではがしながら、まだくっついている人を指差して「バーカバーカ」と言い合うのです。
これは色んな地域にあるようですが、私の地域ではかなり激しく行われていたように思います。

そんなこともあってか、私は「バカ」と言われてもほとんどこたえません。「そうなのよー」ぐらいなもんです。
よく言われることですが、関西人は「アホ」には寛容ですが、「バカ」には神経過敏です。

私が怒らせたその人は関西人でした。
「バカじゃなかったら何て言うの?」の私の問いかけに、「関西ならメバチコだけど、普通はものもらいだろ」と言いました。
…ものもらい!
蝦夷に生まれて差別に敏感な私にはそちらの方が納得いかなくて、なんでやねん、と思ったのでした。



2014-04-23

2014年4月23日

今まで行ったライブ、コンサートの中で良かったのは何?と聞かれたら、まず、カッワーリの王者と言われるヌスラット・ファテ・アリ・ハーンの名前が頭に浮かびます。
もう十五年以上も前に行った彼のコンサートは記憶の中で色褪せることはありません。凄まじいものがありました。

カッワーリというのは、イスラム神秘主義の儀礼的な宗教音楽です。
ヌスラットが車座になった男の人達の手拍子の中で天に向かって声を発しながら高揚していく姿は、自然でありながら自然を超えた存在であると感じさせるものでありました。
あぐらを組むように床に座ったまま歌うのですが、腰から下が巌のようで、地から柔らかい上半身が生え、まさしく豊穣、という言葉が頭をよぎりました。その顔はあくまでも厳しく、曲が激しくうねる中で静かさが増すようでした。

特に、唯一神アッラーを讃える歌は、イスラム教信者ではない私の身体の奥深くにまでも届き、細胞一つ一つに訴えかけてくるようでした。
声が響く空間の粒子と自分の身体を構成する粒子とが混じり合い、自分の境目がなくなった中での、生かされているという凝縮した実感は、喜びとして痛いほどでした。

神に近づこうとする祈りの歌は、心を開いて近づいていくゆえの生々しさがあり、それが聴く者の心の形状に合わせてぴったり張りつくのかもしれません。

こういうことを人は出来るのかという驚きは、今でも私を突き動かすものとなっています。
思い出すたびに、自分がやっていることの陳腐さに顔を歪めながらも、一縷の望みを繋いでくれるものとして、いつまでも心から離すことが出来ないものなのです。

2014-04-17

2014年4月17日

人差し指ってとっても気になります。
コトバ通り、人を指すとなったらまず誰でも人差し指を使います。ただ、人を指す指なら「人指指」にしてもいいと思いますが、ややこしくなるのでやめたのでしょうね。
国によってのジェスチャーの違いが話題になることがありますが、何かを指す時にこの指を使うのは共通であるようです。

箏でうまく弾けない時、人差し指がフニャっとなっていることに気がつくことがあります。そこで人差し指にエネルギーをこめると、なぜか弾けるようになるのです。
人差し指にはどんな役割があるのだろうとつい考えてしまいます。

つい先日も、九品仏の浄真寺の阿弥陀如来像を見ていたら、人差し指が力強い。
古来インドでは手の形で意志を現す習慣があったらしく、 仏や菩薩が手指で示す印の形のことを印相と呼び、それぞれ意味を持たせていたそうです。
浄真寺の阿弥陀如来も、伸びているか、親指と輪を作っているか、どちらにしてもエネルギーに満ちた人差し指なのです。

どうして人差し指であるのか。
試しに、腕を伸ばして、指を広げてひらひらと振ってみました。
指先があちこち行くのに、人差し指だけははっきり目に見えます。周りがグルグル回るのに人差し指が動かない。なんか、北極星を取り巻く星の軌跡みたい…。

そうか、人差し指は手の北極星であるのか。
手が自分の位置を知る道しるべ、それが人差し指なんだろうか。そして、意志のかけらから身体の動きが成り立っているとすれば、意志の道しるべでもあるのかもしれない。

そんなことを考えると、私の短い人差し指も凛々しく見えてくるのです。

2014-04-09

2014年4月9日

先日、所属する松の実會の九十周年記念の演奏会が国立劇場で行われました。
下は二歳から上は九十歳を超える方まで、人間の凡そ全ての年齢層が網羅されていて、そういう方々が箏とどういう向き合い方をしているのか、そしてどういう生き方をされているのか、学ぶことの多い一日となります。

自分も何曲か演奏するのですが、一番楽しみにしているのは、ぐっと年齢層が高い方々の古典曲です。
箏の古典曲にはほとんど唄がつきます。二十分位の長い曲が多いのですが、最初と最後、場合によっては真ん中にも唄がつきます。
その唄になんとも重みがあるのです。

唄に重みがある?
私達がやっている地唄では、今よく耳にする歌謡曲と違い、一つの文字に一つだけの音を当てはめるようなことはあまりしません。母音だけを延々と伸ばしたり、その母音のまま上がったり下がったりします。
例えば、「夢が」一つ言うのに、「ゆめがアーーー、ーーーーーーーーー」と、このぐらい引っ張ります。
そうなると、最後の方では、「あれ、私はなんでアって言っているんだっけ?」てなことになってしまうこともよくあります。

地唄は低い音程で唄われることが多いのですが、私は高い声なので声が出づらい上、途中で意味が分からなくなってしまう事態に至っては、私の唄は本当にアホみたいになります。

とは言っても、私だけではなく、やはり若い人の唄には、声の良さ以外の良さを感じづらいように思います。

声の重みというのでしょうか?
「ゆめがアーーー、ーーーーーーーーー」の、「アーーー、ーーーーーーーーー」だけで、「なるほど、そうですか、そうですか」と言いたくなるような説得力があるのです。

昔、大平さんが「アー、ウー」と言うのを揶揄する向きがありましたが、私はあの「アー、ウー」が好きでした。
今考えると、あの「アー」の間に、今まで経験したことの中から選ぶべき候補となる言葉が頭の中に流れ、「ウー」の間に、それのどれを選択するかの判断の基準が頭の中を流れ…。つまり、とっても沢山の言葉が隠されている雄弁な「アー、ウー」だったのじゃないかと思います。
思慮深いからこその雄弁な「アー、ウー」。それを子供ながらに感じて敬意を抱いていたのかもしれません。

年齢を重ねてくると言葉が出づらくなるのは、一つの言葉を選択するにも、今まで経験したそれに関する事柄が無意識のうちに押し寄せてくるからじゃないかと思っています。ですから、選択した一言の背後には沢山のものがくっついていて、それが言葉の重み、声の重みを感じさせるような気がするのです。

古典の唄もそうなのかなと思います。
「ゆめがアーーー、ーーーーーーーーー」の間に、今までの人生で経験した夢に関することがひとしきり流れるのかもしれません。その思いの量を考えると、以前は伸ばし過ぎだと思っていた音の長さも、人生の先輩方には必要な長さなのかもしれないと思うようになりました。

そして、自分も、それが聴き取れるようになる年齢になるまで生かされたことを、心からありがたいことだと思ってしまうのです。

2014-04-02

2014年4月2日

この時期に散歩をすると、ここにも桜があったのか、という宝探しみたいな楽しみがあって、首があちこちとせわしないです。まだ強く吹く春風に揉まれて歩いていると、休憩のための散歩のための休憩が必要になります。

今日も公園の柵に座って一休み。
少し向こうには林や遊具があり、目の前にはぽっかりと空いたような四角い地面が広がっています。
ずうっと上ばかり見ていたので気がつかなかったのですが、春のうららかさにそぐわない落ち葉がまだ散らばっているのでした。

ふわっと空気が動き、サーッと風の音がすると、葉っぱがスワーッと舞い上がります。風音に合わせて落ち葉が舞い上がるので、音楽に合わせて踊る女の人のスカートの裾のよう。

…そういえば、箏曲で「落葉の踊り」という曲があって、それを弾く時はいつも秋をイメージしていたけど、実は違うのかしらん。
葉が落ちる晩秋には台風はおさまっているし、冬は空気が動かない。実は、春の曲だったりして。

…それにしても、風が吹く度に舞い上がる葉っぱって、決まってるみたい。
微かな風で地面を這っていく葉っぱもあれば、どんな強い風でも動かない葉っぱがあるわ。意地を張っているのかしら。
それにしても、あの一枚の葉っぱはよく動き回るわね。意志があるみたい。

またサーッと風の音がしたので、その葉っぱがどうするのかをよく見ようとしました。

「うわあー、待ってーー!」
と突然大きな声がしたと思ったら、男の子が飛び出してきて、その落ち葉を追いかけ始めました。
風がサーッ、葉っぱがスワーッ、「待って、待ってー」。
その四角い地面の上で、すごい勢いでその落ち葉と鬼ごっこを始めました。目が回りそうです。
サーッ、スワーッ、「うわあ、待ってよ、待ってー」

私はその落ち葉の動きを面白いこととして離れて見ていて、男の子は落ち葉と面白いことをしている。
この違いはなんだ、と男の子に目が釘付けです。

風がおさまったら、その男の子は、先がクルクルと丸くなっている長い木の枝を探してきて振り始めました。
長い枝がビヨンとしなった後に、先のクルクルのせいか、ビヨヨンと変な動きをします。ビヨンビヨヨン、ビヨンビヨヨン。
どこでこんな面白そうなの見つけたんだろう。

今度は、くの字に曲がった短い棒を見つけたようです。ビヨンビヨヨンを左手に持ち替えて、右手でその棒を投げ始めました。くの字といっても、三分の一くらいのところで曲がっているので、ガクガクッと不思議な軌道を描いて落ちていきます。拾っては投げ拾っては投げ…。私も一回でいいから投げてみたくなります。

と思っていたら、小高い丘の上からすごい勢いで駆け下り始めました。加速がかかるのが面白いらしく、登ったら一回止まり、力を抜いて足を踏み出し、勢いがつくままに突進していきます。転んでビヨンビヨヨンが突き刺さるんじゃないかと心配になりますが、関係ないようです。
向こうの遊具で遊んでいた子供達も後に続き始めました。でも彼らは頂上で足を止めるでもなく、単に駆け下りて、途中で力を入れて足を止めています。加速ということに興味を持っているわけではなさそうです。

この遊び方の違い。
この男の子だけは、重力とか遠心力とか、物理的な現象を当たり前のこととせず、身体で面白がりながら繰り返し繰り返し反復していました。
ああ、意志の力と関係ない部分で、地球に住んでいるこの身体の使い方を、こうやって掴んでいくんだなあ。

いつの間にか男の子の姿が見えなくなっていました。
またしばらく考えごとをしていたのですが、さすがにお尻に柵の跡がつきそうなので、さて、帰ろうかと立ち上がろうとしたとき、左の茂みがガサゴソ。
その男の子が出てきました。まだ手には先がクルクルの長い枝。
ビヨンビヨヨンと振りながら去っていきました。

おっかしくなり、「私も身体で楽しまないとなあ」と、周りに誰もいないことを確認して、久しぶりに軽くスキップをしながら歩き始めました。

あれ?
邦楽でいつも処理に困る、えーらやっちゃえーらやっちゃ、ヨーイヨーイヨーイ、の「ヨーイヨーイヨーイ」の時のようなハネるリズムとそっくりかも。
ジャズのスイングも、こんな感じ?
歩くのから、楽しくなって身体が弾んできてスキップを始める感じのリズム?
そして、それに勢いがついてくるかでそのハネ方が変わる?

男の子に大きなヒントをもらい、気持ちが弾んできて、スキップのハネが大きくなったのでありました。