2015-06-20

2015年6月20日

一人の人の中には多くの人が住んでいて、「怖がり」と「怒りん坊」もその一員ですが、このどちらの要素が強いかによって、大きく生き方が変わってくるのかなと最近思っています。

先日小さな犬をとっても怖がる友人をなんとなく見ていたら、犬だけではなく、周りに常に目をやり、なにごとも悪いことが起きないように注意を払っているのが分かります。
どうやら犬が嫌いなだけではなく、他にも怖いものが多そうです。

あれ、と思って、周りを見回してみたら、恐怖感が強そうだなと思う人は、やはり、悪いことが起こらないように、人の気を害さないようにということから行動がかなり決まってしまっているように見えます。

かく言う私も、今は荒療治で治りましたが、昔はひどく犬を怖がったものです。
幼い頃の記憶は全て恐怖や不安から始まっています。

気を遣い過ぎ、などとよく言われましたが、今考えると、優しくて気を遣う、というより、不安を引き起こすことが起こらないように気を使っていた、という方が正しいのかもしれません。
その証拠か、犬が怖くなくなり、物事への恐怖心が少し減ってきたら、「もっと気を遣ったら」と言われるまでになってきました。

とは言っても、この恐怖や不安の感情は乗り越えようとしてもなかなか難しいものです。今でも大きく心を動かされるのはその部分です。
その不快な感情が起こる場面を作らないようにとの思いで、かなりの行動が規定されてしまって、物事がまっすぐ進まないのを感じます。その不自由さから逃れたいとジタバタ手足を動かしているものの、縄がますます強く締めつけてきて、迷走は続きます。

宗教が人間の持つ恐怖の感情と切り離せないことから考えてみても、誰しもその感情を少なからず持っているのでしょうね。
しかし、周りをさらによく見てみると、恐怖以上に、ある感情に振り回されている人も多いように思います。
仏教でも三毒の一つに数えられている瞋(しん)、つまり怒りです。

怒りは、恐怖とは違い、本人にとってそこまで不快な感情ではないように思えます。ですから、怒りに任せることを良しとする人もいるのでしょう。
ただ、怒りをひとたび露わにしてしまうと、そのあとの社会生活に大きく影響を与えてしまうため、それを恐れる人は、怒りを抑えるために苦心することになるのだと思います。
瞬間湧き出る気持ちとしては、怒りは恐怖よりも風速が強いとも言え、それを抑えるとなったら、ものすごくエネルギーを要するようです。

「怖がり」から見ると自由なように見える「怒りん坊」が、自分ではいつも我慢していると思ってストレスを抱えているのを、ハタから見て不思議に思うことがあります。
でも実際は怒りを抑えることの方が大変なのかもしれませんね。

「怖がり」と「怒りん坊」が9対1位の極端な私には、ある程度想像でしかモノが言えませんが、結局、「怒りん坊」も、その怒りが湧き出てこない状況を選ぶため、かなり行動が決まってきているように見えます。

これは余談ですが、気のせいか、「怒りん坊」は「怖がり」を身近に置くことが多いように思います。「怖がり」は「怒りん坊」が怒らないような状況を作るのが得意なんでしょうね。そして、「怖がり」にとっては、「怒りん坊」はどこか憧れの存在です。
しかし、「怒りん坊」は「怖がり」に潜在的にに恐怖を与え続けるものです。「怖がり」は最終的に「怒りん坊」から逃れる道を探すことになってしまうようです。

そういう意味では、「怒りん坊」の方が少し切ないことも多いのかもしれません。

人はこんなに単純なものではありませんが、でも、意外とこの2つの要素のどちらが強いかで、その人のことがある程度分かるような気がするのは私だけでしょうか。

人に会ったとき、血液型を聞くよりは、「怖がり」型か「怒りん坊」型かを聞いた方か色んなことが占えるかもしれない、なんて思っています。