2014-12-25

2014年12月25日

先日古典曲を唄う機会がありました。
一度きちんと古典の唄に取り組まなければと思い、これに合わせてこの1年は唄についてあれこれと考えることの多い日々でした。

自分の身体という楽器を使って音楽を奏でる、という意味では、唄というのは箏を弾くのとなんら変わりのないものだとも言えます。

では、何が大きく違うかというと、やはり歌詞があることでしょうか。
素敵な音色を奏でる鳥や虫はいますが、長い年月を経て獲得した言語を音にのせるというのは、人間の独特な作業であるように思います。

一つの言葉が生み出されるまでには、声にならないイメージの積み重ねがあるのだろうと常日頃感じています。
それに共感するエネルギーが高まり、ポンと言葉が生み出される。そして、言葉だけで思いが伝わるようになる。

古典の難しいところは、この言葉にあるように思います。
使われる言葉がイキイキとしていた時代には、その言葉には溢れんばかりのイメージがあったはずですが、多くの言葉は私たちの共通言語ではなくなってきています。

今回の歌詞に出てきた『鹿の音(ね)』。
古典ではよく出てくるのですが、そこに何の感情を籠めるかで迷ってしまい、改めて鳴き声を聴いてみました。
 


心の奥深くにある感情に手を伸ばしてくるような鳴き声です。
昔の人は、幾重もの思いをこの鳴き声の中に見い出したのでしょうね。

『鹿の音』という言葉だけでは、聴く人となんらかを共有出来なくなってきた今、私に出来ることは、自分の感じた思いを音に強くのせて、言葉にならないものを感じてもらうしかありません。

でも、それは嘆くようなことでもないのかもしれません。
まさしく、言葉が生まれる前に戻らざるを得ない状況を頂いているとも言え、そして、言葉を生み出すその瞬間に立ち会えるのかもしれないのですから。