2014-03-05

2014年3月5日

トラウマってすごい粘着質だなと思います。
私は文章を書くのは嫌いではないのですが、こうやってブログを書くようになって、小学生の時に書いた作文のことをよく思い出すようになりました。

小学五年生の時、それはそれは優しい石川先生が担任の先生だったのですが、何かの理由でその日はお休みでした。
代わりに授業を受け持ってくれたのが、教頭先生です。人気のある先生だったので、代わりの授業もちょっとウキウキ気分でした。

教頭先生の授業は作文でした。
「どういう子供になりたいか?」というお題を出されました。

どういう大人になりたいか、ならまだ書きやすいのですが、もうすでに子供の時期も終わりかけなのにそのお題はなかなか難しいものでした。
ウンウン考えました。
それで、少し前に、勇気を出しておばあさんに声をかけて荷物を持った時のことを書くことにしました。道路を渡っておばあさんに声をかけるのはとっても恥ずかしいことだったのですが、帰りがけに、「本当にありがとう。大きくなってね。」と言われたのがとても嬉しかったのです。「大きくなってね」というのが、人として大きくなる、という意味でもあると感じて、「もっと積極的に行動して、大きな人間になりたい」と、子供ながらに真剣に思ったのです。

そこで、このエピソードを書いた後、子供でも出来ることは沢山ある、自分は「大きな子供」になりたい、ということを書きました。
照れが出てくる年代でしたが、思い切って、そして必死に書いたことを覚えています。

後日、作文が返ってきました。
教頭先生がなんてコメントを書いてくれたかな、と思って、ドキドキしながら原稿用紙をめくり、最後を見たら、赤い字の一行。

「大きな子供」の意味が分かりません。

思わず息を呑みました。
ショックで瞬間に目をそらしましたが、すでにその字は目に焼き付いていて…。
しばらくその字がぐるぐると頭の中を回っていました。
話が面白い教頭先生だったので、自分の話がそんなに分かりづらくてツマラないのかと、かなり落ち込みました。

今考えると大したことではないのですが、私なりに一生懸命書いたつもりだったのでしょうね。
これのおかげで、 「意味が分かるかな」と、だいぶ立ち止まるようになりました。

今でも私の比喩は分かりづらいので、あんまり変わっていないなと苦笑いをすることがあります。自分の感性を表現する日本語がうまく思いつかず、それで比喩を使うのですが、それもうまくいかず…。そもそも私の感性自体が分かりづらいのかもしれないなと思ったりもします。

その時のことを思い出すと、今でも胸のところがウッとくるのですが、私の教訓となり続けてくれているのですから、私の大切な財産なのでしょうね。