2014-10-10

2014年10月10日

音を奏でる身でありながら、一番美しいのは静寂だと思っています。   

自分が一音出すことにより、その美しい静寂をかき消してしまうという罪悪感にずっと苛まれてきました。
弾く前に申し訳なさそうにしていると、よく指摘されましたが、そういう奥底にある気持ちが自分をそうさせてきたのかもしれません。

静寂に音をのせる。
真っさらのものを異質のもので乱す……。
皆んなで共有している美しいものを自分のエゴで穢しているような気がしてなりませんでした。

そして、静寂について考えるようになりました。

静寂を感じるとき。
それは、夜のとばりが下りる頃であったり、しとしとと降る雨を避けて岩陰で膝を抱える時であったり、誰もいない砂浜で海と向き合っている時だったりします。

よく考えてみると、静寂には無数の音が含まれていました。
木が軋む音、葉っぱに雨粒があたる音、風が波を撫でる音。何も音がしないと思えば、耳の中で血が流れる音が強さを増します。

静寂と無音とは全く違うものなのです。
私の奏でる音は、静寂と異質なものではなく、やはり音なのでありました。

その無数の音がなぜ静寂を感じさせるのでしょう。
無数の人間の声は、それがどんなに小さいものでも静寂を作ることはないように思います。

これはすぐに答えが出ることではなさそうです。
でも、その音に自我があるかどうか、ということが一つあるのだと思っています。
自分の存在を主張するような音は静寂たりえないような気がしています。

静寂を自分の音で乱すことを恐れるのではなく、静寂が内包する精神性を学び、その精神性に倣った音を奏でることこそが自分が取るべき道なのでしょうね。

さあて、いよいよ来週はコンサートです。

途上の自分をごまかさずにいられる自分でありますように。
そして、みなさんと心で触り合えますように…