下は二歳から上は九十歳を超える方まで、人間の凡そ全ての年齢層が網羅されていて、そういう方々が箏とどういう向き合い方をしているのか、そしてどういう生き方をされているのか、学ぶことの多い一日となります。
自分も何曲か演奏するのですが、一番楽しみにしているのは、ぐっと年齢層が高い方々の古典曲です。
箏の古典曲にはほとんど唄がつきます。二十分位の長い曲が多いのですが、最初と最後、場合によっては真ん中にも唄がつきます。
その唄になんとも重みがあるのです。
唄に重みがある?
私達がやっている地唄では、今よく耳にする歌謡曲と違い、一つの文字に一つだけの音を当てはめるようなことはあまりしません。母音だけを延々と伸ばしたり、その母音のまま上がったり下がったりします。
例えば、「夢が」一つ言うのに、「ゆめがアーーー、ーーーーーーーーー」と、このぐらい引っ張ります。
そうなると、最後の方では、「あれ、私はなんでアって言っているんだっけ?」てなことになってしまうこともよくあります。
地唄は低い音程で唄われることが多いのですが、私は高い声なので声が出づらい上、途中で意味が分からなくなってしまう事態に至っては、私の唄は本当にアホみたいになります。
とは言っても、私だけではなく、やはり若い人の唄には、声の良さ以外の良さを感じづらいように思います。
声の重みというのでしょうか?
「ゆめがアーーー、ーーーーーーーーー」の、「アーーー、ーーーーーーーーー」だけで、「なるほど、そうですか、そうですか」と言いたくなるような説得力があるのです。
昔、大平さんが「アー、ウー」と言うのを揶揄する向きがありましたが、私はあの「アー、ウー」が好きでした。
今考えると、あの「アー」の間に、今まで経験したことの中から選ぶべき候補となる言葉が頭の中に流れ、「ウー」の間に、それのどれを選択するかの判断の基準が頭の中を流れ…。つまり、とっても沢山の言葉が隠されている雄弁な「アー、ウー」だったのじゃないかと思います。
思慮深いからこその雄弁な「アー、ウー」。それを子供ながらに感じて敬意を抱いていたのかもしれません。
年齢を重ねてくると言葉が出づらくなるのは、一つの言葉を選択するにも、今まで経験したそれに関する事柄が無意識のうちに押し寄せてくるからじゃないかと思っています。ですから、選択した一言の背後には沢山のものがくっついていて、それが言葉の重み、声の重みを感じさせるような気がするのです。
古典の唄もそうなのかなと思います。
「ゆめがアーーー、ーーーーーーーーー」の間に、今までの人生で経験した夢に関することがひとしきり流れるのかもしれません。その思いの量を考えると、以前は伸ばし過ぎだと思っていた音の長さも、人生の先輩方には必要な長さなのかもしれないと思うようになりました。
そして、自分も、それが聴き取れるようになる年齢になるまで生かされたことを、心からありがたいことだと思ってしまうのです。