今年もgu-rilaライブやります。
7月26日6時より、神楽坂のgleeというライブハウスでやります。
グリラライブ、という響き。ゲリラライブにも、ゴリラライブにも似ていて、ちょっと気に入っています。たまに、こそっと混ぜてみたくなります。
gu-rilaは、ピアノ、ヴォイス、箏、二十五絃箏の四人に、いないと困るゲストのパーカッションを加えた、ほぼ五人編成です。
自分がやっておきながら言うのもなんなんですが、昨今の和洋バンドの迷走っぷりには頭を抱えるものがあります。本当にその楽器は必要なのか、今のその音は必然なのか…と考えると、そうとは思えないことが多々あるのです。
では、自分でやるとどうなるか。
…やっぱり迷走しています。
何千年もの歴史を積み上げてきた洋と和の楽器。それぞれを更に輝かせるための使い方というのは、数年数十年で解決がつく問題ではないのでしょう。
でも…
百五十年程前に思いっきり西洋の方向に舵を切った日本。そんな短い時間しか経っていないというのに、今の私達の中には、日本の血と西洋の感性がなんのわだかまりもなく入り混じっているように感じます。
それに対して、楽器は、その血を守ろうと殻を作っているような気がしてなりません。楽器は楽器としての完成度を高めようとすると、どんどん排他的になっていくようなのです。
その純化していくものに心惹かれているのは確かなのですが、それにしても、人間というのは、なんとおおらかなものなのでしょう。変化を受け入れ、形を如何ようにも変えるように思います。
結局は、楽器ということに主眼を置く限り、迷走状態は続くのかもしれません。
そうではなく、様々なものが自然に共存している人間というものを、もっともっと面白がる中で、道が見えてくるのかもしれません。
ゴリラライブ、どうなることでしょうか。
…あ、気がつきましたか?
ご興味ある方はこちらをご覧くださいね。
http://satoyasuko-koto.com/box/information.html
2014-06-25
2014-06-19
2014年6月19日
自分の持ち物のはずなのに、とても遠く感じるものの一つに脳みそがあります。
手足なら直接見られますし、顔は鏡を通してだいたい把握できますが、自分の脳みそは、おそらく一生見ることも触ることも出来ないでしょう。
例えば見られないにしても、心臓は上から押さえるとドキドキいうし、胃はお腹いっぱいになればプクッと膨れる。
でも、頭が痛くなったといっても、どうも脳みそが痛くなっている気がしません。そもそも、脳みその存在を認識しようにも、認識する手段が脳みそなのですから…。
そんなことを考える私ですが、ある時から脳の働きを強く実感するようになりました。
ある日、箏の練習に疲れ、本を読み始めました。大江健三郎の「宙返り」です。なかなかに分厚い本でしたが、夢中になってしまい、結局丸一日かけて読んでしまいました。
そして、その次の日、いつものように箏を弾こうとしたら、ものすごい違和感があり、不思議なくらい箏が弾けなくなってしまったのです。明らかに頭の使い方が違うという感じなのです。なんというか、いちいち意識してしまい、スムーズに前に進まないのです。
それはほんの数時間のことでありましたが、それまでもうっすら感じていたことが、その凝縮した状況のせいか、意識のレベルまで押し上げられてしまったようです。
これが左脳優位の頭の使い方かしら…?
逆に、リサイタルの後などは、文章を書くのが困難になります。条件反射としての会話は問題ないのですが、いざ文章を組み立てようとすると、言葉がうまく出てきません。頭を励ましつつ、手でグルグルと充電器のハンドルを回しながら一語一語絞り出すといった感じなのです。
それぞれの場合、頭の疲れ、という表現をすれば、それはそれで納得出来そうです。でも、それだけでは、その時に出来ることが異なるということの説明がつきません。
気づいた当初は、それを不自由だと感じ、どうにか克服しようと思っていました。
でも、最近では、諦めがつきました。それが人間ですもんね。
それからは、それをどうにかしようと抗うのをやめ、画集ばかり観たくなれば、「はい、あなたはそういうモードなのね」、本ばかり読みたくなれば、「はい、今度はそっちね」と、面白がるようになりました。
ちょっと人ごとみたいですね。
手足なら直接見られますし、顔は鏡を通してだいたい把握できますが、自分の脳みそは、おそらく一生見ることも触ることも出来ないでしょう。
例えば見られないにしても、心臓は上から押さえるとドキドキいうし、胃はお腹いっぱいになればプクッと膨れる。
でも、頭が痛くなったといっても、どうも脳みそが痛くなっている気がしません。そもそも、脳みその存在を認識しようにも、認識する手段が脳みそなのですから…。
そんなことを考える私ですが、ある時から脳の働きを強く実感するようになりました。
ある日、箏の練習に疲れ、本を読み始めました。大江健三郎の「宙返り」です。なかなかに分厚い本でしたが、夢中になってしまい、結局丸一日かけて読んでしまいました。
そして、その次の日、いつものように箏を弾こうとしたら、ものすごい違和感があり、不思議なくらい箏が弾けなくなってしまったのです。明らかに頭の使い方が違うという感じなのです。なんというか、いちいち意識してしまい、スムーズに前に進まないのです。
それはほんの数時間のことでありましたが、それまでもうっすら感じていたことが、その凝縮した状況のせいか、意識のレベルまで押し上げられてしまったようです。
これが左脳優位の頭の使い方かしら…?
逆に、リサイタルの後などは、文章を書くのが困難になります。条件反射としての会話は問題ないのですが、いざ文章を組み立てようとすると、言葉がうまく出てきません。頭を励ましつつ、手でグルグルと充電器のハンドルを回しながら一語一語絞り出すといった感じなのです。
それぞれの場合、頭の疲れ、という表現をすれば、それはそれで納得出来そうです。でも、それだけでは、その時に出来ることが異なるということの説明がつきません。
気づいた当初は、それを不自由だと感じ、どうにか克服しようと思っていました。
でも、最近では、諦めがつきました。それが人間ですもんね。
それからは、それをどうにかしようと抗うのをやめ、画集ばかり観たくなれば、「はい、あなたはそういうモードなのね」、本ばかり読みたくなれば、「はい、今度はそっちね」と、面白がるようになりました。
ちょっと人ごとみたいですね。
2014-06-11
2014年6月11日
雨の音に家の中がひっそり静まりかえっているのを感じます。
この静かさがやってくると、息をひそめたくなります。ちっちゃなちっちゃなことが通り過ぎて行くのです。
「蟻の歩き方を幾年も見ていてわかったんですが、蟻は左の二番目の足から歩き出すんです」
これは私の好きな変人、画家の熊谷守一の言葉です。
角張った丸みを持つ輪郭からなる昆虫や植物を、板の上で色付けしていく。
そもそもは貧乏ゆえでしたが、その粗い愛らしさは、美術館に並ぶ立派な顔をした絵の中で、独特の光を放ちます。
絵を描くより自宅の庭に遊ぶのが好きだったそうで、とにかく庭の虫や草木を眺め続けました。晩年三十年は家を出ることもなかったといいます。
それを乱されたくないあまりに、来客が来たら困るとの理由で文化勲章も辞退したほどです。
この生活の中からの発見。
蟻の左の二番目の足の動き。
これを小さなことと見るか、大きなことと見るか…。
小さなものに潜り込んで潜り込んで行った先で辿り着いたところ。
そこで見る景色。
私は底知れぬ大きさを感じるのです。
この静かさがやってくると、息をひそめたくなります。ちっちゃなちっちゃなことが通り過ぎて行くのです。
「蟻の歩き方を幾年も見ていてわかったんですが、蟻は左の二番目の足から歩き出すんです」
これは私の好きな変人、画家の熊谷守一の言葉です。
角張った丸みを持つ輪郭からなる昆虫や植物を、板の上で色付けしていく。
そもそもは貧乏ゆえでしたが、その粗い愛らしさは、美術館に並ぶ立派な顔をした絵の中で、独特の光を放ちます。
絵を描くより自宅の庭に遊ぶのが好きだったそうで、とにかく庭の虫や草木を眺め続けました。晩年三十年は家を出ることもなかったといいます。
それを乱されたくないあまりに、来客が来たら困るとの理由で文化勲章も辞退したほどです。
この生活の中からの発見。
蟻の左の二番目の足の動き。
これを小さなことと見るか、大きなことと見るか…。
小さなものに潜り込んで潜り込んで行った先で辿り着いたところ。
そこで見る景色。
私は底知れぬ大きさを感じるのです。
2014-06-05
2014年6月5日
夢から深層心理を推測することはよくあることだと思いますが、それはあくまで夢を夢として離れて見ているからだと思います。
夢と現実はどう違うのかしら?
私はそれにいつも頭を悩ませます。
結局よく分からず、夢と現実の境目をつけないが故に、夢の中でも真剣な振る舞いになります。
私が鳥になって、この世の果てを見に行った時は、そこではグリーンカレーの海が渦巻いていました。
その先はプツッと切れており、すごい勢いでカレーも空気も吸い込まれていきます。戻ろうにも熱風に煽られ、止まろうにもどこに着水したら良いか分からず…。困惑して、必死で羽ばたかせながらも、世界の秘密を知った喜びにほくそ笑んでしまうのでした。
きつねうどんを作ろうと思いたち、まずキツネ狩りに出かけることにしました。森を走り回ってもなかなかキツネが捕まらず、そのうちに日も暮れてきて、諦めの気持ちが湧いてきました。べつに、きつねうどんじゃなくても良いのではないか……葛藤に苦しみつつ、動かなくなってきた足を引きずりながら、キツネの姿を追い求めるのでありました。
夢と現実の違いは、それが寝ている時に起こったか否かによるのかもしれません。でも、寝ているかどうかの判断自体が夢でなかったとは言い切れないところもあり、話はややこしくなります。
また、事実としてあるもの、そして周りで起こる物事にどう対応して、どのように物事が流れていくかということを現実だとすれば、夢と現実の違いはだいぶあやふやになります。
だから、私は夢を客観的に捉えることは出来ないようなのです。どれも人生での貴重な経験です。
この世の果ての秘密をばらしちゃいましたね。
夢と現実はどう違うのかしら?
私はそれにいつも頭を悩ませます。
結局よく分からず、夢と現実の境目をつけないが故に、夢の中でも真剣な振る舞いになります。
私が鳥になって、この世の果てを見に行った時は、そこではグリーンカレーの海が渦巻いていました。
その先はプツッと切れており、すごい勢いでカレーも空気も吸い込まれていきます。戻ろうにも熱風に煽られ、止まろうにもどこに着水したら良いか分からず…。困惑して、必死で羽ばたかせながらも、世界の秘密を知った喜びにほくそ笑んでしまうのでした。
きつねうどんを作ろうと思いたち、まずキツネ狩りに出かけることにしました。森を走り回ってもなかなかキツネが捕まらず、そのうちに日も暮れてきて、諦めの気持ちが湧いてきました。べつに、きつねうどんじゃなくても良いのではないか……葛藤に苦しみつつ、動かなくなってきた足を引きずりながら、キツネの姿を追い求めるのでありました。
夢と現実の違いは、それが寝ている時に起こったか否かによるのかもしれません。でも、寝ているかどうかの判断自体が夢でなかったとは言い切れないところもあり、話はややこしくなります。
また、事実としてあるもの、そして周りで起こる物事にどう対応して、どのように物事が流れていくかということを現実だとすれば、夢と現実の違いはだいぶあやふやになります。
だから、私は夢を客観的に捉えることは出来ないようなのです。どれも人生での貴重な経験です。
この世の果ての秘密をばらしちゃいましたね。