2014-06-19

2014年6月19日

自分の持ち物のはずなのに、とても遠く感じるものの一つに脳みそがあります。
手足なら直接見られますし、顔は鏡を通してだいたい把握できますが、自分の脳みそは、おそらく一生見ることも触ることも出来ないでしょう。

例えば見られないにしても、心臓は上から押さえるとドキドキいうし、胃はお腹いっぱいになればプクッと膨れる。
でも、頭が痛くなったといっても、どうも脳みそが痛くなっている気がしません。そもそも、脳みその存在を認識しようにも、認識する手段が脳みそなのですから…。

そんなことを考える私ですが、ある時から脳の働きを強く実感するようになりました。

ある日、箏の練習に疲れ、本を読み始めました。大江健三郎の「宙返り」です。なかなかに分厚い本でしたが、夢中になってしまい、結局丸一日かけて読んでしまいました。
そして、その次の日、いつものように箏を弾こうとしたら、ものすごい違和感があり、不思議なくらい箏が弾けなくなってしまったのです。明らかに頭の使い方が違うという感じなのです。なんというか、いちいち意識してしまい、スムーズに前に進まないのです。

それはほんの数時間のことでありましたが、それまでもうっすら感じていたことが、その凝縮した状況のせいか、意識のレベルまで押し上げられてしまったようです。
これが左脳優位の頭の使い方かしら…?

逆に、リサイタルの後などは、文章を書くのが困難になります。条件反射としての会話は問題ないのですが、いざ文章を組み立てようとすると、言葉がうまく出てきません。頭を励ましつつ、手でグルグルと充電器のハンドルを回しながら一語一語絞り出すといった感じなのです。

それぞれの場合、頭の疲れ、という表現をすれば、それはそれで納得出来そうです。でも、それだけでは、その時に出来ることが異なるということの説明がつきません。

気づいた当初は、それを不自由だと感じ、どうにか克服しようと思っていました。
でも、最近では、諦めがつきました。それが人間ですもんね。

それからは、それをどうにかしようと抗うのをやめ、画集ばかり観たくなれば、「はい、あなたはそういうモードなのね」、本ばかり読みたくなれば、「はい、今度はそっちね」と、面白がるようになりました。

ちょっと人ごとみたいですね。