一日どのくらい練習するの?
こんな質問をされることがあるのですが、毎度のことながら言葉に詰まってしまいます。
別に責められているワケではないのに、言い訳がましい言葉が出てきそうになるのを呑み込んでいるのです。
自分でも呆れるくらい箏が好きなので、空を見ても山並みを見ても、右を見ても左を見ても、だいたい箏に繋がるようなことを考えています。
だったら、ずっと箏を弾いていればいいのですが、ああ弾こう、こう弾こう、と考えるのが長く、楽器を弾き始めるのはだいぶ経ってから…というのは、よくあることです。
世界の巨匠、チェリストのカザルスも、ピアニストのポリーニも、一日八時間とか十時間とか聞くと、そわそわしてきてしまうのですが、そわそわとまず好きな音楽を聴き始めちゃうのです。
もちろんそれは勤勉ではない性質によるものなのでしょうが、段々、単に怠け者だからというワケでもないんじゃないかという気がしてきました。
練習というのは、弾けないところを弾けるようにするという面はもちろんあるのですが、自分が演奏しているのをずっと聴き続けているという意味は決して小さいものではありません。
八時間、カザルスの演奏を聴くのと、八時間、私の演奏を聴くのでは…
カザルスだって納得いく音が出なくてもがいていたと思いますが、前提としての景色の違いは計り知れないほど大きく、本能的にそこにいたいかどうかを身体が分かっているように思うのです。
音楽に対する憧れの気持ちが強ければ強いほどそうであるような気もします。
とは言っても、私も箏を弾き始めるまでの時間が短くなってきました。
背に腹は代えられないということもありますが、実際に弾き始めてから聞こえる「違う違う」という何万回もの心の声が減ってきたのです。
前よりちょっと進歩したということかしら?
出来ないからこそ練習が必要なはずなのに、進歩をしたら前より練習量が増えるというのはなんか矛盾しているような気もします。
でも、身体の声を聞いて生きていると、どうやらそれが自然の流れであるようなのです。
気がついたらそれを長くやっているというのは、身体がその良さを知らせてくれていることでもあるのかもしれませんね。