2014-03-26

2014年3月26日

強い風に押されながら、春という季節の持つエネルギーに負けまいとしています。物事が動き出す気配が大きなうねりとなって空気を揺り動かし、迫ってくるようです。

幼少の頃は、春は柔らかく、薄桃色のイメージでした。学校で教わる春のイメージの集合体はそういうものだったと思います。
それを真に受ける私もなんなのですが、「オトコオンナ」と呼ばれるような私には、そんな優しい春はモゾモゾするものでした。

歳を取ってきて、あれっ、と思うことが増えてきました。
花見に行ったら雨風でおちおちお団子も食べられなかったわ、とか、傘がひっくり返ったからまた買わなくちゃ、とか、昼間の暖かさに調子にのったら風邪をひいちゃった、とか、なんかお葬式が多いかも…、とか、一筋縄ではいかない春が見えてきました。

人も生まれる時はあんなに苦しんで出てくるのですから、芽吹く時期の苦しみもさもありなん。
今は春の嵐もそういうものとして受けとめるようになりました。

ところで、昔は、「さくらさくら」にどう気持ちを込めれば良いのかよく分かりませんでした。
日本人なら春にこの歌を歌いたくなるでしょ、という押しつけがましさはまだしも、メロディが、安っぽいビニールで出来た桜の飾りのように能天気過ぎるような気がしたのです。

箏を弾くようになり、「さくらさくら」の音階が、学校で習っていたのと違うのだと気がつきました。
例えば、「やよいのそらは」の「い」と「は」は、習っていたのよりちょっと低い音程です。「みわたすかぎイり」の「わ」と「す」と「イ」もちょっと低くします。
歌ってみると分かるのですが、このちょっとのことで急に陰影が出ます。

明治に入って、西洋の楽器で演奏したために、元々の歌のニュアンスが喪われてしまったのですね。
本来の音階で聴くと、桜の匂いと、散りゆくものを思う切なさが混じり合い、何に対してか分からない愛しさのようなものが湧き上がってきます。

でも、「さくらさくら」に対してこういう思いを抱くようになったのは、箏で弾くようになったからだけではないような気がします。

生きる、ということを重ねて育っていく思いなのかしらと思います。

…いつのまにか春が好きになっていたんですね。